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■swimm profile


s w i m m


ギター、チェロ、キーボード、そして歌。
それらから想像される音楽の形とは少し――あるいは遠く――隔たった場所にある、
音のアンサンブル。
一方、ことばは、その場所にやって来ない・立ち止まり・共に歩み・行ってしまう。
一つになれたことのない「わたしたち」が紡ぐ、聞いたことのない懐かしい歌。
音とことばの新しい景色を探しながら歩く、その振る舞いは、
「いつかどこか」にはなり得なかった「マーチ」。
未発のマーチが街に響く、鳴っているのはswimm。

吹岡弘彬(Vo, Gt)、中川裕貴(Cello)、大澤慧(Keyboard))
によるユニット。2006年結成。


2009年8月、1st album "水平線が音になる頃"をリリース。
2013年2月、2nd mini album "頭の中では次の駅をきめている"をリリース。

■member

吹岡弘彬 / Hiroaki Fukioka : Vocal, Electric Guitar

Twitter(外部リンク)

中川裕貴 / Yuki Nakagawa : Cello, Tape, Field-recording

Twitter(外部リンク)
中川裕貴/yuki nakagawa WEB(外部リンク)

大澤慧 / Akirua Osawa : Keyboard, Piano

アカネイロヒキ(外部リンク)
 



swimmについて  |  集団:歩行訓練 谷竜一氏より


 泳ぐ、ということの手前には「水に浮く」という段階がある。この「水に浮く」というのは私たちが予め母親の胎内でクリアーしているものだが、「何故泳げないのか?」と問うときに、「何故水に浮くことを忘れてしまったか?」について思いやることを忘れがちだ。私はそれをうまいように説明することができない。そのようにある、ということについて語ることは、非常に困難だ。身体の記憶はあまりに自身そのものであるため、なかなか言語を寄せ付けない。ただ脈動だけはあいかわらずハッキリしてくる。


 swimm、というバンドがある。京都の楽隊であって、私は彼らが滅法好きだ。どんなふうに好きかと問われれば、4、5年前だかよく京都のライブハウスやらに出入りしていた折、やはり今の音楽には詩が足りない、私は詩人だがこんな調子ではやむなく私が音楽をやるしかない、などと嘯いては、なんだかよくわからないパフォーマンスをやっていたのだが、彼らを観た途端、ああ私は音楽などやらなくともよいのだ、と思ったのだった。たとえばそんなふうに彼らが好きだ。
 さて、一体何の自信があって私は自分がオンガクガデキルなどと思っていたのか。思い出すだに噴飯物だが、しかし私はいまだに明るい方法を用いれば(ひまずの業の巧拙はともかく)、何かしら有意は板の上に乗るだろうと考えているフシがあり、ちょっとなんだか未だに、当時の責任感と気概を本気では笑えないでもいる。

 ところで、何かしら音楽を囓ったもののうち、ある種類の人間の頭の中には理想の楽隊が結成されており、時にはその楽団員がアレコレと音を鳴らすのを現実に再現するのに呻吟したりすることがあるように私は思う。そんな「ぼくのかんがえたさいきょうのバンド」みたいなのは所詮個人の趣味に依拠する戯言に過ぎず、21世紀の今日こういう趣味と夢想に依拠したナンチャッテ構成主義こそ厳しく批判検討されるべきだ。しかし大袈裟を承知で書くが、swimmをはじめて観たとき、私が想像の中で鳴らしていたオーケストラがごろん、と目の前に登場したように錯覚した。
 つまりswimmは「明るい方法」を持っては板の上に乗り、しかも実に真っ当に音楽で、おまけに、美しかった。私は結局あたふたと手をばたつかし、とりあえずボーカル・ギターの吹岡弘彬と握手をした。で、音楽はやめとこ、と、こっそり思ったのだった。


 ただの思い出話をしてもしようがないので、がんばって説明を試みてみようと思う。要素から説明してみれば、生音ヒップホップとポエトリー・リーディング、空間に即した音響感覚とノイズ、シーケンスパターン型即興を通過したフォーク・ミュージックと言えるだろうか。しかしこれらの要素をバランスよく配置すればswimmの音楽になるわけではない。彼らの特徴はこれらの諸要素が鮮やかなグラデーションを見せながらゆらめき、分かちがたく結び、その境界面を消滅させていることにある。

 swimmの音楽は、吹岡の簡潔なギターパターンの上に、彼のポエトリー・リーディングとうたが乗っかっている。ある時間帯に、手つかずの海岸線を眺めると空と海を隔てる水平線が消失する様を観られることがあるが、たとえて言うなら彼の詩とうたは、そんなふうに淡く結び合っている。その風景にほとんど暴力的に風が吹き、海面にその風がテクスタイルをつくる。彼らの音価への高い注視と音響を構成することへの洞察が、多彩な青に塗られたキャンバスを自在に刻み、紋様にする。次第にピアノやギターが劈くような朝陽を風景に連れ込み、一面の織物に鋭さと儚さを載せる。中川の編み出した平面に時間という概念が織り込まれ、風景は映像として隆起をはじめる。
 ノイズの集積がリズムになり、リズムを刻んでいた楽音がある瞬間、ゆるやかな規則性に則りハーモニーを響かす。このあたりまえのような「音楽」の生まれかたについて、一曲ごとに語り直すような丁重さが彼らにはある。


 彼らの音楽について語ることは、近い将来現れるだろう彼らを愛する(ちゃんとした)批評家たちにお任せして、吹岡の詩と声についてもうすこしだけ書いてみたい。
 吹岡の詩はどのようなスピードで書かれ、どこを書いた瞬間に書き抜くためのギアが入ったのか、どうしてかわかるようにすら思える。日々の飛沫を雫として落としながら、次第にそれが水源となり溢れだす、川になり海へと流れこむその瞬間―これは言い換えれば、言葉が詩に生まれ変わる瞬間なのだろう―が。
 吹岡は近代日本文学をしごく真っ当に継承した書き手である。最新作である『頭の中では次の駅をきめている』の『君の街に行けることを確かめようと歩いた』では坂口安吾を参照している。また『リトルボイス』にみられるような音の刻みが韻律を呼び込む感覚は北原白秋らのそれではないか(白秋からはその歌の牧歌性も継承しているといえるだろう)。これらの叙情は音楽性に溢れながら、音楽を前提としない。言葉に内在する音を抽出し、やがて音楽になるまでじっと待つようなその仕事は、目的的に扱われた言葉のそれとは一線を画する。




 「 一、予が象徴詩は情緒の諧楽と感覚の印象とを主とす。故に、凡て予が拠る所は僅かなれども 生れて享け得たる自己の感覚と刺戟苦き神経の悦楽とにして、かの初めより情感の妙なる震慄を無みし只冷かなる思想の概念を求めて強ひて詩を作為するが如きを嫌忌す。されば予が詩を読まむとする人にして、之に理知の闡明を尋ね幻想なき思想の骨格を求めむとするは謬れり。要するに予が最近の傾向はかの内部生活の幽かなる振動のリズムを感じその儘の調律に奏でい でんとする音楽的象徴を専とするが故に、そが表白の方法に於ても概ねかの新しき自由詩の形式を用ゐたり。 」


(北原白秋『邪宗門』例言より抜粋)



 では、いかに音を抽出しているか?彼はきわめて個人的で、わりにナーヴァスな視界を描写している。しかしそれは語られていく中で身体的運動と同期する(している / していく)。『君の街に行けることを確かめようと歩いた』の「太鼓やシンバルの音に合わせて闊歩することはめんどくさい / 街のリズムにシン クロしたいなんて玄人臭い考えを鼻にかけたりして / そもそもその自意識が邪魔で早く体が疲れてしまえばいいのに / そしたらいつか読んだ臨界点に達した敗残兵みたいにあてどなく歩けるかもしれないのに」という箇所にハッキリと見て取れるように、まず自身の運動を感知している自分に自覚的であって、それでいな がらその自覚から遠ざかるように運動する。この果てしない感覚受容と省察と韻律的な運動との循環は、彼の詩の特徴である。
 その結果として生まれる歌は、ただ描写でありながら宣誓でもある。宣誓でもありながら詠嘆でもある。言葉は運動へと変化しながら、あくまでそれを遠くから見つめている目がある。それは安易に共感を求めるでもなく、個がただ個として茫漠とした世界を歩いていくための、大きな鼻歌のように私には聞こえる。




   生きてる匂いのしないその街から 僕は三歩で飛び出した
   手のひらが 手のひらが 僕を呼ぶんだ
   左翼はうなだれて何も言わない 右翼は探さないでと叫んでたっけ
   教室 見知らぬ言葉が空転する 
   それはしかしまぎれもなく僕の言葉 すべて異常なし
                         ( swimm / your bird can swimm より)



 水に浮く、という段階のことを考えながら、実際には歩いている。ということを、私たちはすることができる。swimmの音楽はいつも、そんな当たり前の違和感の手触りを確かめるところから始まっている。少年のような眼差しで、それにしてはえらく突き抜けた諦念を抱えて。彼らは自分のナーバスさも、行為はただ運動にすぎないという残酷さも、そしてそんなことは気にするに値しないということも、きっとよく知っているのだろう。そのことについて、悩んだっていいのかもしれない。でも、彼らはときに粗雑に、ときに丁寧に、それらを塗り重ねていく。だからわたしは、悩むよりは彼らといっしょに歌いたいと思ったりする。そして、歌っているうちに次の駅まで歩けたりもするだろう。




谷竜一(集団:歩行訓練)